昭和40年01月17日 夜の御理解
私は信心生活ということは、いろいろな見解がございましょうけれども、神様を身近に感じさせて頂く生活だと思う。信心生活とは神様の働きを実感的に、身近に感じて、そこにもったいない事だなあとか、有難い事だなあとか、神様の働きの一分一厘間違いない事に恐れ入るなあという生活だと思う。観念的に、例えば、お道の信心なら信心が分かって、分かっておる生活というようなものは、私は形式的な信心生活だと思う。形式に流れた信心生活なんて、おおよそ意味がないと私は思う。
今日は、ちょうど私はお月次祭から帰らせて頂きましたら、上熊本の方達がひとつれ、それから伊万里からひとつれ、ちょうどここで私を待っておって下さった。教学研究会の日にも当たっておりますので、皆さんもみんな終わって下へ降りてきて、そこへちょうど竹内先生がお参りになった。それで結局、そこのお広前でストーブを囲んでから、座談になった訳なんですけれども、先生が言うておられるのですね。椛目の方達はほんとに幸せですよと。椛目で教学の勉強をされると。
成程、椛目的、椛目教学というなら、まあそういう事でしょうけれども、教学というのはどうしても、ただ勉強ということになる。けれども椛目の場合はですね、直に神様を感じながら教学しておられるという事が有難いことですねて。ご自身もやっぱりそれを言っておられます。椛目でご神縁を頂かれるようになってからです、直に神様を実感されるという事が有難いという事。
先程、高芝さんたち夫妻と永瀬さんたち夫妻が小倉の方から帰られて、小倉というのは今日は息子さんの嫁さんを、仲人を永瀬さんたち夫婦が承っておられます。今日はその結納というおめでたい日だった。それで二夫婦でおいでられた訳なんです。お取次を頂かれて、おいでられました。今朝、朝の御祈念に皆さん参ってみえて、いつも参ってみえますから、お届けが終わってからでしたが、先生、今日あちらに参りますから、御神酒を持っていかないかん。それで御神酒を二本、わけて頂くようにと言うことだった。
古賀先生に出してあげなさい、と言うてから、申しました。めでたい事じゃけん、松竹梅かなんか、めでたい銘柄んとが良かろうと探したけどなかった。結局、月桂冠という酒があったから。その時私がですね、その事をお取次させて頂きながら、ハア、この人は御神酒さんと言いよるばってんが、心の中ではお酒ば持って行きよるとこう思うた。高芝さんに、「あんた一級酒じゃけん、お酒と思うとるけんで、特級酒にしなさい」て私が。ここの御神酒は特級酒ですね。いつもそうですから。
だからほんとに御神酒を持って行くのでなからにゃいかんから特級酒にしなさい。と言うて、また新たに出させましてから、それを分けてもろうて行かれたんです。ね、月桂冠というその銘柄からも「月」は氏子のことと仰る。ね、お天道様が神様ならば、月は氏子のことじゃと「桂」とは柱と書いてある。氏子の柱という事。その「冠」王冠の冠ですね。松竹梅より、かえってこの方がめでたいと私は思うた。それを持って結納においでられた訳なんです。それで今帰ってみえてからのそのお届けなんです。
「先生、今日という今日ばっかりは、もうほんっとに有難いおかげでした」とこう言う訳なんです。「もうほんっとに、二夫婦の者が、ずっとあちらへ着くまで、神様のおかげちゃ恐れ入るなあ、恐れ入るなあと言うて、あちらに着かせて頂きました」とこう言う。高芝さんが運転された。四時間かかるそうですね、あそこまで。四時間の間に一遍もゴーストップにかからなかったと。
どこ行ってもずうっと青電気。これだけでも神様が向こうの方から、その事をめでたいとまたは喜んで下さっておるのが分かるという訳なんですね。有難い。帰りはそれとは反対に、ずうっと赤、赤でやらせて頂いたとこう言う。どっちにしても有難い。そうはっきり頂けれる事が。そこに二夫婦の方達が実感しておられる事。向こうに行って座敷に通されたら、生け花の中からです、なんという素晴らしい。このまま生け花の中から椛目の御理解を頂くごたる。と言うて帰ってみえた、とこういう事である。
私は、そういう実感した事実は、それが私は本当の信心生活だというふうに思うんですね。ところがそこにきを非常にその軽く思うておる人がおる。ふがよかったとは思わんけれども、それを実感して有難いというところまで、心が高まっていかない人がある。それでは私はだいたい言うなら椛目で信心のけいこをする値打ちはないと私は思う。いやむしろです、むしろ何かそれを軽う見るような場合すらがある。
成程、椛目で頂くことはですね、何とは無しにやはり、桜井先生が頂かれるように、不思議な国の物語といったようなところがありますからね。神様が、例えば、人間氏子の上にです、人間の言葉をもって、人間の感覚をもって分からせようとなさるためには、もう神様は最高のあれは、お知恵をしぼって、私共に分からせて下さろうとする訳なのですね。みんなが、神様言葉をもってしても、皆さんが分かられない。
世界中の氏子に話がしてみたいと仰るような神様なのだけれども、こちらが聞く耳を持たぬからいわば分かるように合点がいくように噛んで含めるように色々とお知らせくださるんですよね。今も久富繁雄さんがお届けをされるのに、今朝からお夢を頂いた。『私のほうに、今朝から、守部の高山敏光さんと永瀬格一さんがおみえになられた』お夢を頂いた。もひとつこれは久富さん、今は信心の手本のようにみんなが言うけれども、このままじゃあいかん。もう一段信心を進めなければいけん。
「高山」ということは、もう一段、高められた修行ということだと思う。「敏光」という事はすみやかに光ると書いてある。「永瀬格一」とは永遠の永。「瀬」は瀬です。これは浅いという意味ではなくてですね、お恵みの水が流れておる所とこう頂かなきゃならんでしょう。もう永遠に、永劫にお恵みの水が、ずっーとこう尽きることなしに頂けれる事のためにです、「格一」である。「格一」は木偏に各々と書いてある。「格」は。各々の心。「格一」は横一である。
各々の心をです、ね、一つに自分の心の中に治められるような信心をさせて頂けという事である。息子が何と言おうが、家内が何と言おうが、また家庭的にどういうような事であってもです、ね、いわば繁雄さん、あんたが目指しとするところは、どろのような信心じゃ。どういうようなものを持ってこられても、それを有難くあのお土に浄化していって、しかも、どんな良いものでも、ここから育つというような生き方に焦点を置いて信心を進めていかなければならんためには、もう一段「高山」である。
もう一段高い山に登らせてもらう信心させてもらわにゃいかん。それを神様は、いわばすみやかに、とこう言うておられる感じがする。それには家族中の者の、例えば、さまざまな問題をです、その中心であるところの繁雄さんの心の中に受け止めさせて頂いて、豊かに、有難い事だ、とこういうような頂き方が出きるように、一段進めなければいけません。それは一段とです、一段と光り、または、永劫です。頂けれるお徳を受けるための信心がなされなきゃいけないという事。
だから私がこうして説明すると、何かですね、こじつけたごたるふうに、というふうにもし頂いたら、もうおしまいです、椛目の信心は。これは日々そうなんです。そういうふうな中に、例えば、生活させて頂くのであるから、神様をそれこそ寝とる間にでも、夢の中にでも、そういう働きを頂いておるという事をです、有難いなあとこう、繁雄さんはもちろんの事だけれども、それを聞かせて頂く者も、有難い事だなあと分からせて頂くような信心がです、なからなきゃいけないという事。
今日、上熊本のもみたさんのお届けの中にです、娘さんが高校を卒業して大学に行きたいと言う。それで、さあどうしようか。お父さんも、とにかく椛目の先生にお伺いしてからと言われるし、娘さんもそれによって、腹を決めようと言っておられる。どちらにさせて頂いたら良かろうかと。わざわざ娘さんが自分でお初穂をして、とにかくお母さん、今日はお伺いしてきてくれという事であった。
私はそれをお届けさせて頂いたらですね、『英断(えいだん)』と頂いた。英国の英という字と、「断」は断つという字。「ああ、これは大学行きを思い切らにゃいけんよ」と私が申しました。「今、『英断』と頂いたから」「ハアー、先生、実は、私共の娘は英語が得意でございます」ち言う。「ですからそのアメリカのお友達の方と英語で文通をするぐらいに英語が好きだと。
そのために大学に行くと言いよるとですけん、ハアーしてみると、その英語を断たなきゃいけんとですね」という訳なんです。『英断』「英を断て」と書いてある。「ハアー、それで合点がいきました」と、スキッとこの中にですね、娘もその事を言うて聞かせたら分かるだろう。分からなければ椛目の信心の値打ちはないです。そこでスキッとしなければ、お取次を頂いた値打ちはないです。
それを例えば、横で聞きよる人がですたい、もう、こじつけた事ばっかり言いなさるというような思い方をする人は、まあ、あるまいけれども、それでは椛目に信心のけいこをさせて頂いておる値打ちはないという事。ところがです、私はおおありである事に、いつも相済まん事だなあと思う事がたくっさんあるのです。これは私共の家族の者でもそうです。神様がわざわざ言葉をもって言うておんなさるばかりにです、さまざまなそういう表現をもってお知らせ下さっても、それを軽う見る。
それでさっき、私は夕方からそのことを考えさせて頂いた。こういう例えば、素晴らしい事を頂いても、みんながそれを軽う見るという事は、私自身が軽う見られておるからだと私は思うんです。これは私自身が、こりゃ本当におかげを受けなきゃいけんなと。ね。私がいかに権威をもって伝えてもです、ね、皆さんが、ハア、またあげな判じもんのごたること言いよんなさると。
私は古賀先生にいつも言うんです。何か問題、いつも夕刊の、私この頃、最近全然新聞見ませんけれども、夕刊の見出しに、いつもこの頃椛目のことばっかりが書いてあるよと私が申します。見出しに。ね。そう言うたら、いかにも私がですたい、まるきりその西日本新聞ば私の自由にしよる、徳を持っておるというふうに、威張ったように聞かれたらそれまでなんです。けれども、【 】その私にとってはそれが実感的にある。成程、成程と合点のいくことばっかりなのである。
例えば、私が古賀先生にそれを言うと致しましょうか。「ほう、そうじゃろか」ち言うだけで、もし聞いたらとするなら、どういう事になりますか。「ほんっとにしかし、神様のお働きちゃあ恐れ入りますですねと。ほんとに有難いことですね」こういうふうな、私は頂き方をしなければです、椛目の信心をさせて頂く値打ちはなかと。「そうですか」ち言うごたることではです、私は椛目の信心のけいこをする値打ちはなか。それではいつまでたっても神様を実感して、神様を身近に感じていくところの生活。
そりゃ信心生活という意味あいにおいてはいろいろな見解がございます。けれどもです、神様の身近な働きにです、ね、有難いとか、もったいないとか、場合によっては本当に、その事によって改まらせて頂くというような信心が出来てはじめて私は神様を身近に頂く、いわゆる、今日私が言う信心生活が出来るのじゃないだろうかとこう思うんですね。どうでしょうか、皆さん。
私がいかに生きた神様の実感をです、皆さんにお伝えさせて頂きましてもです、ね。」ただ不思議な国の物語的なふうにだけ頂かれたんではです、皆さんの血にも肉にもならないという事。神様を実感することも出来ないという事。これをおろそかにされるという事は、これは私が軽う見られておる証拠だと私が思うんです。だからこりゃいよいよ私がほんとになら皆さんにです。
私の言うようがの中の言葉にでもです、皆さんがですそれを神様のお言葉として、権威あるそれをみ教えとして皆さんが頂かれることになった時です、ほんとのおかげを頂けれると私は思うのですけれども、ためには私自身が、どういう信心をいよいよさせて頂いたならば、皆さんがです私の言うことをそのまま信用して聞いて下さるようになり、有難いことだというふうにして頂いて下さるようになるだろうかという事になる。
信じておる訳です、私自身。ですから私もそこに精進の余地がたくさんあります。けれども皆さんがそれを頂かれる。ただ、「ほんなこっちゃある」「成程」とただ思うだけではなくてです、それがそのまま、例えば、神の言葉と頂かせてもろうたり、神の姿と見せて頂いてはじめて、皆さん自身が本当の意味での信心生活が出きるのじゃないでしょうかねえ。おかげ頂かにゃなりません。